「デジタルストレス王」 November
11, 2003 |
素敵なカタカムナ
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「トンデモ本」という言葉が生まれて10年以上は経つだろうか。今ではかなり一般的に認知されている。超能力、超古代文明、ユダヤ陰謀論、血液型人間学、ノストラダムスの予言、怪しげな健康法などなど、中身が「とんでもない」本という意味だ。
トンデモ本を研究?する「と学界」なるものがあって、そこでは「トンデモ本大賞」という名誉ある?賞も設置されている。
噂では、この「と学界」に対抗して「へ学界」なるものもあるとか。
「と学会」がいくら「こんなものはトンデモだ」と告発しても、そんな圧力は「へ」とも思わず、黙々と、あるいは嬉々として「トンデモ」ないものを発表し続ける異端者団体らしい。
「へ」は「と」より先を行く(いろはにほへと、の話ね)から、「と学会」は永久に「へ学会」には勝てないのだとか。
ほー。
この世界(どういう世界だ?)も奥が深い?のだなあと、感心させられますね。
僕はどっちかと言えば「と学界」より「へ学界」(実体はまったく知らないが)のほうに肩入れしたくなる。
「と学界」から指さされる超古代文明、予言もの、血液型人間学的ネタなどは大好きだし、人からは「なんですか、それ?」と言われるような団体やグループにも出入りしている。
最近は自然消滅してしまったが、狗道研究会(天狗を研究する会)というのがあって、そこに集まる奇人・変人たちとは何度も酒を飲み、全国の天狗霊山を巡った。
拙著『鬼族』、『狗族』、『カムナの調合』など、自称「現代の伝奇小説」シリーズには、狗道研究会で仕入れたネタがあちこちに登場する。
日本参道狛犬研究会(会長・三遊亭円丈)にも出入りしているが、この会は大阪のテレビ局で、「プリン愛好会」「バス愛好会」などと並んで、珍サークルとして取り上げられたという哀しい過去を持っている。(狗道研究会に比べれば、極めてノーマルな人たちが集まっているのだが……)
トンデモ、結構じゃないですか。
悪質なやつ(詐欺的金儲けが目的の本など)は無視するとして、楽しいトンデモ本に「科学的反論」を試みるなんてのは野暮でしょ。
僕が好きな「トンデモ」は、古史古伝や超古代文明もの。その中でもとびきりお気に入りなのが「カタカムナ」だ。
ギターデュオ・KAMUNAの名前の由来をたまに訊かれる。タヌキを飼っていたとき、よく噛みつかれていたので「噛むな!」からきた、とか、適当なことを答えているが、実は「カタカムナ」からとっている。
カタカムナ。知らない人がほとんどだと思うので、そのトンデモぶりをちょこっと紹介しよう。
楢崎皐月(ならさきこうげつ)という科学者がいた。明治32(1899)年5月9日、山口県生まれ。陸軍参謀本部作戦部長・石原莞爾や星製薬社長・星一(SF作家で有名な星新一氏の父)とも交流があったらしい。
戦時中は、満州吉林省に関東軍直轄技術部隊の責任者として赴任。主に製鉄精錬の研究を行っていたそうだ。
そのとき、同じような設備や材料なのに、製鉄所によってできあがる鉄の品位に差があることを発見。これは、製鉄所が建っている土地の「電位」に関係があるのではないかと推論する。
その説を証明するため、戦後、昭和24年の12月から翌年3月にかけて、若い助手数名と一緒に、六甲山系の金鳥山(兵庫県)付近にキャンプして「大地電位」の測定をしていた。
すると、ある晩そこに、ひとりの猟師がふらりとやってきて、こう抗議した。
「おまえたちが水場に変な機械を設置するから、森の動物たちが怖がって水を飲めなくなっている。すぐに撤去しろ」
楢崎は素直に機械を外した。
すると翌晩、猟師が再び現れ「おまえらはなかなかいいやつだ」と、すっかりうちとけ、実家の「カタカムナ神社」に先祖代々伝わる巻物を見せてくれたという。
そこには○と十字を基調にした不思議な記号のようなものが渦巻き状にいくつも記されていた。興味を持った楢崎は、それを筆写させてもらって持ち帰った。
これが超古代文明カタカムナの存在を示す「カタカムナのウタヒ」と呼ばれるものだ。
……いやぁ、なんと魅力的なイントロダクションだろう。
うちにはカタカムナについて書かれた「トンデモ本」が2冊あるが、書棚の相当いい位置を占めている。何度読んでも面白い。
カタカムナのウタヒは、ウタヒというように、一種の「うた」になっている。
僕が特に好きなのは第5首と第6首のうたで、続けて書くとこうなる。
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ
最後のカタカムナを除くと、いろは歌のように、きれいに50音で構成されていることが分かる。
拙著『天狗の棲む地』(1994年、マガジンハウス刊。絶版)の中にでは、こんな一節が出てくる。
歌を三回繰り返すと、住職は訊かれもしないのにその歌の意味を語り始めた。
「ヒフミヨイというのは目に見えるもの、正の世界のことだ。
ムナヤコトというのは目に見えぬもの、負の世界だ。
世界の本質……これをわしらはアマと言うておるが、アマはヒフミヨイとムナヤコトが互いにうねるように旋転し、循環して形成されている。
アマは理屈ではない。
我々を生かしている、すべての存在の大もとは、目に見えぬ世界、つまり『カムナ』の中にある……」
今読み返すと思わず赤面してしまうが、当時自分が相当カタカムナに入れ込んでいたことが分かる。
今もカタカムナは僕にとっては「素敵なトンデモ」だ。
「カムナってなんですか?」
と訊かれたら、いちばん短い答えは、
「形のないもの」
にしている。
もう少し説明を加えて答えるときは、こう言う。
この世界は、形のあるもの(目に見えるもの=形=カタ)と形のないもの(=カムナ)の二重構造になっている。物事の本質は、形(見えている世界)ではなく、その裏にある「形のない何か」(=カムナ)にこそあるのかもしれない。
人間は肉体という形から逃れられない。形を愛することは人間らしさでもあるけれど、ときには形のない世界の意志のようなものを感じることも大切なんじゃないか……。
……ちょっと宗教がかってますね。やはり、「トンデモ」ですか?
同じ「形のないもの」でも、デジタル信号はストレスの源になるばかり。
デジタルストレスにつぶされる前に、本質であるカムナに思いを馳ながら、人間らしいアナログな魂を持ち続ける。
……なんだか分かったような分からないような。
ま、まとまらなくても許してね。端から見れば所詮「トンデモ」ですから。はいはい。
「ヒフミヨイのうた」と呼ばれるカタカムナのウタヒ第5首
(原典「相似象」第9号)
(c) Takuki Y. http://komainu.net
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